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ひがしみの昔話

ひがしみの昔話

源斎橋〈中津川市千旦林〉

 千旦林の木曽川のほとり、恵那峡のきりたった崖の上に「源斎岩」という岩屋があります。これは昔、吉村源斎が、家来や百姓たちに迷惑かけてはならないと、たった1人で武田信玄の大軍と戦って、戦死したところです。 源斎は生まれた時の体重が四貫(約15キログラム)、生まれてすぐに木曽川を泳いだし、13歳のときには2メートルもある大鯉を素手で生け捕りにして来たということです。
 16歳のときのことです。源斎は身長が2メートル近くありました。ある晩、隣のばあさまが源斎に留守番を頼んで買い物に出掛けました。
 「腹がへったら、ここに餅があるで食べてくりょ」と、ばあさまは出掛ける前にいっておきました。やがて、ばあさまが帰ってきてみると、昼間にこしらえておいた、2臼(約6キログラム)の餅がすっかりなくなっています。
 「ありゃー、おらがついておいた餅はどこへいっちまったよ」「おれがいただいた」
 「エエッ、2臼の餅を全部もッ」「アア、ぜんぶ食べた。おいしかった」ばあさまは腰を抜かして、「なんちゅう大食らいじゃ。そんなら力もあろうが。いっぺんおらに見せてくりょ」「そんなら餅をよばれたお返しに、ひとつお目にかけようか」
立ち上がった源斎は、庭へおりて、あちこちの庭石を拳骨で叩いてまわりました。
 ぼこん ぼこん ぼこん   拳骨の大きさの穴がいくつも開きました。
 今、恵那市大井町の内城稲荷神社には、源斎が伊勢からもってきたという、約50キログラムもある煙草入れの根付け石がまつってあります。


【解説】
 源斎岩の岩窟の内部は約3メートル四方、高さは約2メートル。今でも焼けた米や茶碗のかけらが出る。
 「武並神社縁起」に、永禄7年(1572)3月、猿楽を催した際、千旦林城主吉村七郎左衛門源斎、子息源蔵の名が記されている。子息源蔵も後に上村合戦で戦死した。