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ひがしみの昔話

ひがしみの昔話

熊崎新三郎〈恵那市三郷町野井〉

 天皇陛下の妹和宮が、将軍家茂と結婚することになって、大勢の行列で、中山道を下って来ます。沿道の村々は人足を出したり、食事の支度などで大変でした。野井村へは伝馬の人足の外に食事の支度に30人出せと言ってきました。無理だと言うと、女子供でいから15人出せと言われました。
 「去年、有姫や寿明姫の賄いをつとめたなどと言われても、そんなおぼえがない」代表として中野村へ来ているお百姓の1人熊崎新三郎は腕組みをして言いました。当然中野村がやるべきことを全部野井村へ押しつけられているのです。
 やがて勤めを終わってホッとして帰る途中で庄作は、新三郎にであいました。
 「どこへ行かっせる」
 「中野へ行って、吉田お代官にあってくる」新三郎は吉田代官の泊まっている酒屋へ入ると、代官の前に手をついて、「ちょっと、お願いしたいことがありまして」と、言いながら、隠し持っていた刀で代官に切りつけました。しかし、刀は十分にとどかず、羽織の紐を切っただけでした。再び切りつけようとするところを手代の鈴木領右衛門が「こいつ」と大声で叫んで、首筋をつかんで投げました。
 新三郎はぬきみの刀を持ったまま、逃げ出しました。水かさの増している阿木川に飛び込んで、そのまま行方知らずになりました。
 野井村の休番庄屋啓助は、取調べられたが「いっこうに存じません」と言うばかりでした。この事件で野井村の賄い方はお役御免になりました。
 新三郎の母とら、妻くわは親類預けとなり、田畑、家屋、財産は取調べの上封印、戸口には青竹を打たれました。
 代官吉田泰蔵らは中野村が有利になるように取り計らったことがわかって、それぞれ役をやめさせられました。


【解説】
 東濃の地を東西に貫く歴史の道の中山道の出来事として知られているのが、文久元年(1861年)の皇女和宮が将軍家茂との結婚のために、中山道を江戸を下った大奉行のことです。
 阿木広岡に残る文書には「文久元年10月29日、中津川宿泊まり、28日は大湫宿、同日昼食大井宿にて、中山道を下向、前後五日間の大通行、「昔から覚えざる大通り……」と記されています。この大通行について岩村藩は、野井村に対して大湫宿に出る助郷という規定の負担の他に、岩村藩が和宮下向のために負担した種々の仕事を一方的に押し付けたことから、発生した事件で、新三郎は野井村の為にやったことです。