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ひがしみの昔話

ひがしみの昔話

田中守平〈恵那市武並町竹折〉

 田中守平は明治33年、17歳のとき、小学校の先生になりました。わずかの間でそれをやめ、東京へ出て政府の印刷局につと勤めながら、学校へ通って中国語の勉強を、今で言うと高等学校のような学校、それに法律の勉強をする学校へも通いました。
 明治36年11月19日の午後3時ごろのことです。守平は19歳になっていました。明治天皇の行列が皇居の桜田門のあたりにさしかかったとき、守平は日露戦争のことを書いた紙を、天皇に読んでもらおうと思って、差し出しました。
 けれども、たちまち巡査に捕らえられ、故郷の武並村へ帰されました。それからは山の中に入って、きびしい不自由な暮らしをして、怠けようとする自分の心をきたえました。スポーツとしては剣道、弓、マラソンが得意でした。
 27歳のとき、太霊殿という心の教育をするところを作りました。身分や差別があってはいけないこと、全世界の人々が仲良くすること、学校へ行くのは20歳で終わり社会のためにつくすこと、などをみんなを集めて話しました。
 次の年、心を磨くために中国へ渡り、モンゴルのラマ王から招待されました。30歳のとき、また恵那山の中に入って、不自由な生活を始めました。米と味噌と、その他には少しの野菜や川で捕れた魚があるぐらいで、服も着替えの下着があるばかりの、テレビも何もない、小さな小屋での暮らしです。
 やがて、東京に太霊殿ができ、武並には総本院が作られました。それは6階建ての立派なものになりました。けれど残念なことに大正15年に火事があってこれは焼けてしまいました。


【解説】
 田中守平は明治17年9月、武並村田中虎之助三男として誕生。没年46歳。彼の願いは人類の平和、争いのない社会、人種国境を超越した天地の大道教の創設とその社会の全世界への伝道にあった。
 武並村へ参集する者が多くなり、1,500坪の土地を寄付して武並駅の開設。また郵便局の設置など、徳行は枚挙にいとまがない。