出の小路山の大檜〈中津川市付知町〉

 

 今から二百年ほど前のことです。出の小路山のふもとに大きな檜がありました。四方へ枝を張ったその姿は神々しいくらいでした。
 江戸城二の丸の普譜の用材を整えることを命ぜられた尾張藩は、裏木曾の美林に目をつけ、付知に役所を建て、仕事にかかりました。
 大檜を見た役人は、これを心柱にすると決め、二人の若い杣人(木こり)に切ることを命じました。二人は人々の願いの声に、気は進みませんでしたが、命令とあれば仕方なく切り始めました。三つ口という切り方で、三方から切り進め、最後に倒すのです。
 二つ口を切り終る頃、日が暮れました。残りは明日にしようと帰りました。あくる日、来てみて驚きました。昨日切った傷口もなく、おが屑や木っぱもなく元々通りになっていました。見廻りに来た役人が怒りました。「今日一日で切り倒せ」
 ところがどうしても二つ口を切り終る頃に日が暮れました。
 その翌日、来てみるとやっぱり傷口が塞がり、元々通りになっていました。二人は恐ろしくなって、もう切ろうとしません。
 そこへ杖をつきながら一人の老婆がやって来ました。「若い衆、その木を切るのかえ」「そうか、どうしても切るのか。それでは、切りかたを教えてやろう。切った木っぱをみんな燃やしてしまえばいい」
 老婆はそう言うとどこへともなく立ち去りました。二人は老婆の言った通り、おが屑も木っぱも、残らず燃やして帰りました。
 次の日来てみると、切り口は昨日の儘でしたので、二日がかりでついに切り倒しました。

 
 

【解説】

 数日後、役人の詰所や杣人の小屋から出火し、みんな焼けてしまい、このころから杣人で怪我をする者が多くなった。役人たちも、神のたたりを恐れて、小さな祠をたてて山の神をまつった。
 これが、今の護山神社の起こりだと言われている。