二股の芽〈恵那市山岡町〉

 

 戦国時代のお話しです。
 甲斐の国(山梨県)の武田信玄の軍勢が美濃の国(岐阜県)まで攻めてきました。山岡の鶴岡山というのは長くつながった連山ですが、西の端に諏訪が峰という少し高くなった山があって、そこにお城がありました。武田の軍勢は、この諏訪が峰城を攻撃してきたのです。
 何100人とも数知れない敵兵が、雲の霞のように谷を埋めつくして押し寄せ、矢は雨のように降り注ぎます。それに比べて城の兵隊は50人ぐらいしかいません。あまりの激しい攻撃に、城を守っていた大将は城を捨てて、北の方へ逃げ、山を下りて原村へたどり着くと、中洞というところにあったお寺の中へ隠れていました。
 しかし、それもついに敵に感づかれて、お寺を取り囲んで攻撃してきました。わずかについてきた家来たちも、次々に討たれお寺に火をつけられて焼かれてしまいました。
しかたなく大将はたった1人で戦って、ついにあえない最期をとげました。
 戦いの後村人たちは、はかない運命の大将のお墓を、近くの畑のわきに作りました。
 それから間もなく、その付近の田畑の畦や土手に、二股の茅が生えるようになりました。諏訪が峰城の大将の無念の思いが、この茅にこもって、世にもめずらしい二股の茅になったのであろうと、村人たちはこの茅にこめられた恨みの思いを恐れ、草刈りの時期になっても、この二股の茅だけは刈り取らないで残すようになりました。
 そうして、不運な大将の冥福を祈って、その小さなお墓には、ときどきお供え物がされています。

 
 

【解説】

 この物語の時代、遠山氏は織田信長と和親関係にあり、諏訪が峰城も武田氏に敵対していた。織田信長は、岐阜から大軍を引き連れて駆けつけたが「大見物のごとく出たまふ」とあるように、武田の軍勢にはかなわないとみてか、戦わずして引き返してしまった。
 二股茅は、今では別の場所へ移し植えられ、あまり生育がよくないようである。