上村合戦〈恵那市上矢作町〉

 

 元亀3(1572)年12月27日、甲斐(山梨県)の武田信玄の家来、秋山信友(当時飯田城主)の騎馬軍団5,000人が突如として上村に現れ、岩村城へ向けて攻撃が始まりました。
 これを迎え撃つ岩村方は明知城主遠山景行を総大将として約2,000人、更に徳川家康の家来の三河勢(武節、名倉、田口、足助、作手、田峰)併せて2,500人を応援に差向けましたが、この三河勢は上村に到着すると「戦わずして領地に引き上げた」と古文書には残されています。
 何事もなく正月が迎えられると思っていた村人達は、突然起こった戦いのため、男たちは軍夫にとられ、食料は徴発され、女、子供、老人は難を逃れて山に隠れて、武田勢が去るのを待つしかなかったのです。
 後に「正月に門松を立てない家」の話が残ったのも、この時の祖先の労苦と、戦いの言い伝えを残す意味があったのでしょう。
 武田軍団は名高い騎馬軍です。その得意とするところは騎兵による急襲であります。しかし馬を戦場で使う為には蹄鉄が常にしっかり取りつけられていなくてはなりません。それには多くの蹄鉄職人を連れて行く必要があります。武田の騎馬軍団が常に勝っていたのは、この方法が優れていたからではないでしょうか。武田軍団の弱点は石です。道に石が多いと蹄鉄が破損し、更にすべる、ころぶなどによって戦力が損われます。だから河床道、崖道、石の多い里道は嫌われました。
 根羽→大桑峠→木地山→飯田洞のコースを通ってきたものと思われます。

 
 

【解説】

 小林将人さんは四つのコースを挙げ、石の少ないこのコースが最有力だとしておられます。但し横道は名の通り横の道で、江戸時代に開かれた道で、当時は飯田洞へ上ったと見え、阿寺砦、前田砦など飯田洞からの敵を迎え撃つように構えられています。飯田へ行く道なので飯田洞と名付けられたといいます。