藤坂のはなし〈恵那市岩村町〉

 

 今から800年くらい前、正治年間(1199年頃)の話です。
 鈴木三郎重植の娘の重の井は父親が自慢するほど、たいへんな美人でした。源頼朝は重植に、「そなたの娘を加藤次景廉の妻とせよ」と、命じました。
 重の井は父親のもとや、生まれ故郷の紀州藤城村を離れたくないと思いました。しかし重植は、「将軍様のご命令では断ることはできない」と言って、「この村の藤の実を持って行き、藤の木を育て、故郷を思い出せ」と、守袋に藤の種を入れて持たせました。
 姫は輿入れがすむと、すぐに登城坂に種を蒔き、毎日手入れをして、大切に育てました。やがて、5月になると、藤城村に負けない藤の花が咲くようになり、姫の心をなぐさめました。
 以来、景廉の子孫の遠山氏は、この登城坂を藤坂と呼んで大切にしたといいます。
 時代は変わり、城主が丹羽氏の頃(1640年頃)、丹羽氏の家臣中嶋平兵衛は毎日の登城の時、藤坂に来ると藤の種が多く落ちていて滑って転び登城に不便であるとして、藤の大木を全て切り倒してしまいました。
 すると、不思議なことにその切り株から血が流れ出しました。
 中嶋平兵衛は塩をまいて清め、神主沼田若狭守に祈らせてその怨念を静めました。しかし、丹羽家に不祥事が発生し、越後の国へ国替になったのは重の井の無念さが消えていなかったからであると言います。
参考文献『いわむら昔ばなし余話』

 
 

【解説】

 丹羽家の不祥事というのは「霧ヶ城筆記」という書物によると、赤字財政を立ち直らせた丹羽瀬兵衛の功名をねたんだ妻木郷右衛門が、仲間をさそい、連判状を作って、瀬兵衛の追い出しに成功する。瀬兵衛が幕府に訴えたことから、城主丹羽氏音が評定所に呼ばれ、家臣の統率不行き届きを咎められた。