千駄がえし〈中津川市千旦林〉

 

 昔、この村に、毎日千駄(馬千頭分)のたき木がきり出せる、広い山がありました。百姓仕事がひまなとき、馬にたき木をつけて、町まで売りに行き金をかせぎました。金が取れると博奕が好きになって、毎日博奕ばかりやっていました。
 釜焚きの親父が「五文、十文の博奕ばっかやっとらんと、どうじゃ、おれと薪の割りやっこをして、割りぞこなった方が負けちゅうことで、おんしらが勝ったら、この釜焼き場をみんなおんしらにやるわ。そのかわり、おれが勝ったら、千駄の山を全部おれによこすちゅうのはどうじゃ」と威張って言いました。始めの内は頭を横に振っていた馬方達も、業を煮やして遂にやることになりました。
 毎日薪割りばかりしている釜焚きの親父に勝てるわけがあません。とうとう千駄山は釜焚きに取とられてしまうことになりました。
 馬引きの嫁ごがこれを聞いてまっ青になって怒りました。「とろくさい。大勢かかって、何ちゅうだらしないこっちゃ。ようし、おらが取り返してきたる」と、はだしのまま飛び出して行きました。途中で帯がほどけ、だらしない格好になったけど、無茶苦茶に薪を割りだしました。釜焚きの親父はその格好が面白く、初めの内は真面目な顔で薪割りをしていましたが、ついに「ブフーッ」と吹き出してしまい、薪の木が「カタン」と倒れ、ポカンと薪割りで自分の向こうずねを打ってしまいました。
 嫁ごのおかげで千駄山を取り返したので、それからは千駄がえし村とよばれるようになったといいます。

 
 

【解説】

 百姓と博奕は江戸時代の半ば頃からはやるようになり、農民は広大な土地を自分のものにした地主の階層と、地主の土地で働かせてもらっていてる小作人の階層とに分かれることになる。女房を質入れして、遊女に売られる者や、遊び人と呼ばれるヤクザ者が現れることになる。