山中の怪奇〈中津川市蛭川〉

 

 蛭川は家が数件ほどで、大木が茂った盆地だった頃の話です。信州(長野県)の方からここへ一人の旅人がはいってきました。道に迷ってしまい、あたりはすっかり暗くなりました。周囲を見回していると、林の中に、かすかに見える火の光を発見しました。天の助けと喜んだ旅人は、その光をたよりに近づいて見ると、小さな小屋があります。中に入ると老人が一人、焚火の前に座っています。一夜の宿を頼むと、老人は「さぁ火の側へ上がって下さい」と快く迎えてくれました。
 しばらく話しているうちに老人が「私は少し用があって出かけたいが、留守番をしていて下さい」と言うのです。旅人は「いやだ」とも言えず、「どうぞ」と言うと、「この奥に一間あるが、そこは決して覗かないように」と言い残して出かけて行きました。
 だいぶたって、奥の間で何か物音がしたような気がしました。「気のせいかな」とも思ってみたが、寒気が背すじを走ります。少しして今度は、はっきりバタッと音がしました。振り向くと、髪をふり乱し、青白い女の顔がそこにあったのです。男は驚き表へ飛び出そうとしました。すると土間へ降りる縁の下から、毛むじゃらの固い手が男の足を握ったのです。重ねての怪奇に男は気絶しました。
 帰って来た老人の介抱で、やっと男は気がつきましたが、震えはまだ止まりません。 実は老人には精神病の娘があって、近所の手前もあり、この山小屋へ連れて来て生活していたのです。また縁の下には一匹の猿を飼っていました。つまり旅の男は、精神病の娘の顔に驚き、猿に足を握られた怖さに気絶してしまったのです。

 
 

【解説】

蛭川=木曽川の右岸にあり、東・西・北に山を負い、南に開けた高原に位置する。恵那峡に沿った一帯は景勝地。中切にある安弘見神社の、毎月四月十六日に奉納される杵振踊は、この地に落ち延びた南朝方の落武者が昔をしのんだ剣の舞が始まりといわれ、県の無形民俗文化財。(「角川日本地名大辞典」より)