大井城落城〈恵那市大井町〉

 

 文明5年(1473)信州(長野県)松尾の城主、小笠原家長は木曽家豊をさそって、東濃地方へ攻めこみました。大井遠江守行秀は必死になって防戦しましたが、ついに落城しました。信州勢はさらに荻島城(瑞浪市釜戸)を攻め取り、東濃全体は小笠原氏の勢力下に入りました。小笠原氏は数十年間にわたって東濃地方を支配していましたが、天文年間(1532―1554)になると、又岩村城主遠山氏が奪い返しました。
 尾州(愛知県)志那野の斯波氏に仕えていた藤井常俊という侍が、浪人となり、大井郷に来て遠山氏に仕えました。その子宗常、宗守の兄弟が、遠山氏の命令で、荒れ果てていた大井城を修理して、京都の伏見稲荷の神霊を迎えて城の守護神としてまつり、宗常が城主となりました。又、今城の欠と呼ばれているところに鷹撃谷築という砦をきづいて宗守が主となりました。
 宗常は病気になり、甲斐(山梨県)の武田信玄、岐阜の織田信長から招きを受けましたが出向くことができませんでした。そうしてやがてなくなりました。その子、常高が後をついで大井城主となりました。
 天正2年(1574)2月。武田勝頼の軍勢が大井城と鷹撃谷築を包んで押し寄せました。激しい戦闘は夜になっても続き、武田方は火矢を放ちました。城も砦も真っ赤な火を上げて燃え上がりました。
「もはや、これまでだ」
城兵たちは常高を囲んで、城の裏口から闇に紛れて脱出して行きました。
 その後、大井城は完全な廃城となりました。

 
 

【解説】

 宗常には35町歩、宗守には30町歩が与えられた。大井城跡には、いま大井小学校、恵那高等学校が建っているが、城の遺跡らしいものはなにもない。城の欠には石垣や土塁が残っている。藤井氏の子孫は中津川市茄子川にあって今も健在である。