無縁仏「玉堂海州」の墓〈恵那市山岡町〉
昔、鶴岡村は貧しい村でした。
訳の分からない病気が流行し、腹痛で七転八倒する人が次々に出て大騒ぎでした。この様子を見た坊さんのような旅人が、「私がなんかしてみましょう」と言って、ふところから一服の薬を取り出して、村人に飲ませました。
すると、15分と経たないうちに激痛が治まり、びっくりしました。病人達が良くなったのを見て、立ち去ろうとする旅人に、「旅籠やは岩村まで行かなければないし、日も暮れたことだから今夜はここへ泊まってください」と頼み庚申堂に泊め、心をこめてもてなしました。
そうしてしばらく留まってもらうように頼みました。
この話を伝え聞いた近隣の村人達は、病を治してもらいたいと、庚申堂にと訪れて来て助けを求めました。
訳の分からない病気が流行し、腹痛で七転八倒する人が次々に出て大騒ぎでした。この様子を見た坊さんのような旅人が、「私がなんかしてみましょう」と言って、ふところから一服の薬を取り出して、村人に飲ませました。
すると、15分と経たないうちに激痛が治まり、びっくりしました。病人達が良くなったのを見て、立ち去ろうとする旅人に、「旅籠やは岩村まで行かなければないし、日も暮れたことだから今夜はここへ泊まってください」と頼み庚申堂に泊め、心をこめてもてなしました。
そうしてしばらく留まってもらうように頼みました。
この話を伝え聞いた近隣の村人達は、病を治してもらいたいと、庚申堂にと訪れて来て助けを求めました。
次々に来る病人を診ているうちに、早くも1か月が過ぎました。この人は後藤海蔵といい、漢方医であることが分かりました。
その当時、山村にとって医者は貴重な存在でしたので、村人はこぞってここに永住していただくように懇願しました。
そして鶴岡村は医者のいる村として大層有名になりました。
その後明治30年代まで続きましたが、海蔵先生も年を重ねられて、多くの人々に惜しまれて、お亡くなりになりました。
海蔵先生は中津町の生まれとのことでしたが、親類縁者のことなどいっさい語られず、一度も帰られる事もなかったそうです。
その当時、山村にとって医者は貴重な存在でしたので、村人はこぞってここに永住していただくように懇願しました。
そして鶴岡村は医者のいる村として大層有名になりました。
その後明治30年代まで続きましたが、海蔵先生も年を重ねられて、多くの人々に惜しまれて、お亡くなりになりました。
海蔵先生は中津町の生まれとのことでしたが、親類縁者のことなどいっさい語られず、一度も帰られる事もなかったそうです。
【解説】
下手向、普門寺の東、墓地の中ほどに個人の墓にしては大きい古い石塔があり、「玉堂海州居士」という戒名が彫られている。明治41年建立「中津町の医師後藤海蔵の墓」とある。以前には彼岸や盆には選考を立てる人もあったが、今ではほとんど人々に忘れられて、無縁仏のようになっている。