天狗党と東野村〈恵那市東野〉

 

 江戸時代も終り頃の話です。
 天狗党は水戸(茨城県)から出発して中山道を西に向かって進みました。800人ほどの軍勢で陣羽織に鎧・兜をつけ、槍や鉄砲を持っています。
 途中、信州(長野県)の和田峠では松本藩や下諏訪の高島藩の軍と戦い勝って、飯田から清内路を通り中津川へ入って来ました。
 幕府から命令された岩村藩では、槇ケ根の坂の上に陣地を作って、天狗党を討つ用意をしましたが、殿様が留守中なので、敵を城下内へ入れさせないことに変更して、東野のはずれの石仏坂と番屋のあたりに、壕を堀り、石を積み、大砲をそなえた陣地を作りました。
 陣地ができても、そこへ入る人間がなくては何にもなりません。ところが天狗党は血刀をひっ下げてやって来る恐ろしいやつだという噂が広がっていて、自分から進んで出て来る者はありません。そこで五人組毎に2人出せということになり農民474名、鉄砲を撃ちなれている猟師110名を集めることになりました。
 東野では農民70名、猟師23名を出しました。又、岩村藩では村々の庄屋を集めて、大井宿へ来て泊まった天狗党に、岩村城下へは入らないようにと頼みに行かせました。
 天狗党の一行は規律が非常に厳しく、物を奪ったり乱暴をしたりすると切りすてるなど、思い刑罰を決めていて、大井の宿では何事もなく、一泊すると翌朝、宿代や人足賃をきちんと払って、中山道を西に向かって出発して行きました。
 岩村藩や東野の人々はやれやれと思い、石仏坂や番屋の陣地も取り去られました。
参考文献『東野のむかし話』

 
 

【解説】

 天狗党とは「学問を鼻にかけた成り上がり者・高慢な奴らだ」という意味で、世間が名付けたもの。武田耕雲斎を隊長として筑波山で兵を挙げた。京都へ行っている十五代将軍徳川慶喜に会って、自分たちの意見を聞いてもらおうと出かけたもの。尊皇攘夷(天皇に政治を返し、外国船を打ち払え)をとなえる。