爪切地蔵と久保原の花火〈恵那市山岡町〉

 

 文政七年のある夏の明け方、久保原村の爪切地蔵の前に一人の旅人が行き倒れていました。村人たちは近くの林昌寺に担ぎ込みましたが、やがて旅人は気がつきました。粥をすすると、「自分は弥吉というもので、江戸の両国から来ました」と言いました。
 盆の十六日に爪切地蔵の祭りというので、弥吉が出てみると、空地に大勢の村人が集まり、長い矢竹を十本程立て並べ、うち一本が煙を吐き、跳び上がりましたが、三メートルぐらいで落ちて来ました。
 弥吉は「俺は花火職人だ。見せてくれ」と、立ててある矢竹を手にすると、竹筒に火薬を詰めなおし、突き固めました。今度は矢竹が空高く飛んではじけました。全部打ち上げ終わると若い衆たちは、花火の作り方を教えてくれと頼みました。弥吉は一旦は断りましたが、久しぶりに火薬の臭いをかぎ、花火師の心が甦り、一年待ってくれと言いました。
 弥吉はちょっとした不注意から火薬を爆発させ、人差し指を吹き飛ばしてしまったのです。やけになった弥吉は江戸を出て転々と各地を流れていたのです。「指を失った右手では微妙な火薬の調合は無理だがそれを左手でやってみよう」と決心させたのです。 それからと言うもの弥吉は、左手に筆を持ち、懸命に経文を写し始めたのです。
 明けて文政八年の夏、弥吉は村人たちを集めて、「これから俺の教えるのは『行き別れ』という仕掛けだ…」
 爪切地蔵の祭りも成功裡に終わり、旅支度を整えた弥吉の参道を下りる姿がありました。爪切地蔵の前には若い衆が集まっていました。「弥吉さん、お別れに俺たちの作った仕掛け花火をみておくれ」
 火をつけられた火筒は、弥吉の目の前で見事に行き別れたのです。

 
 

【解説】

 この話は平戸城主、松浦静山著「甲子夜話」270巻の中にある。
 この本の中には、岩村城主松平乗の子で、林家へ養子に入った大学頭林述斎が、講義の合間に語ったエピソードが、いくつか収録されている。
 大円寺は戦国時代に焼失し、江戸時代には大竹林となり、「大薮」と呼ばれていた。