ふしぎな大木(合体木)〈中津川市付知町出の小路谷〉

 

 出の小路山に、桧と椹と合わさってできているふしぎな大木がある。
ずっと昔、武士の世の中になった頃、方々で戦をしては力のある武士が京の都へいって大将になろうと一生懸命やったそうな。
 その頃、木曽の武士の頭であった木曽義仲は、木曽から出てきて何回も激しい戦をしながら、大軍を引き連れて都へ攻め入り平氏を追い出したが、乱暴な振舞いが多く、頼朝の軍に負けてしまったそうな。
 戦に負けると家族もとらえられてしまうきまりになっていた頃やったもんで、義仲は「もうだめだ」と思い、妻の山吹と子どもの義王丸に、最後の別れをいったそうな。
義仲に最後の別れをいった母と義王丸は、人に知られないように京都を離れ、木曽へ向かって旅を始めたそうな。旅といっても敵に見つからんように山道を通ったり、谷を越えたり、昼は隠れ、夜になって歩くといった苦しく長い旅で、やっと付知の山奥までたどりつくことができたそうな。
 一山超えりゃなつかしの木曽やが、体が疲れ切って動くこともできん。二人はだき合って静かに息をひきとったそうな。
 それから大分たって、これを見つけた村人は、あまりの哀れさに、みんなで弔って、墓のかわりに一本の椹の苗木を植えたそうな。
 何年かたって苗木が大きくなると、ふしぎなことに椹の木の半分が桧に変わり、仲良く一本の木になって大きくなったそうな。「きっと母子二人の魂がこの木に乗り移ったんや」といいながら、村人たちは思わず手を合わせて、見上げるようになったそうな。

 
 

【解説】

木曽義仲=源義仲(1154-1184)平安末期の武将。為義の孫。幼名、駒王丸。木曽山中で育ち、木曽冠者と称される。以仁王の平家討伐の令旨を受けて、頼朝・行家に呼応して挙兵。平維盛を倶梨伽羅峠で破り、京都に入って朝日将軍とよばれた。しかし後、後白河院と対立し、範頼・義経の追討を受け、近江国粟津で戦死。