廃仏毀釈〈恵那市笠置町〉

 

 廃仏毀釈令というのは、お寺を中心に先祖のお祭りをするのをやめ、神道に改めよというお布令で、明治維新の王政復古という思想の中心は平田篤胤とその門人たちでした。
 苗木藩はこの「平田学問」を信ずるものが多く、その一人、青山直道が大参事という位につくと、藩主をはじめ藩士全部を神道にしてしまいました。
 明治三年、廃仏毀釈令を出し、領内のお寺をすべて、建物は勿論仏様から鐘まで焼き捨てるか売りなさい。村人は家の仏壇や位牌を焼き捨て、お墓の石塔は割るか、土の中へ埋めろ、従わない者は厳罰にするという厳しいものでした。
 長増寺の和尚、野田眠州は名前を長蔵と改め、農業に従事させられました。本堂に掲げてあった雌雄一対の龍の彫り物がとても見事だったので、一枚を滝坂の民家に隠しました。宝物などはないしょで岩村藩領へ引き渡されたと伝えられています。
 やがてまもなく、廃仏毀釈令はとけました。野田眠州は長増寺再建に努力しましたが、一度やめた寺号を復活することは困難でした。
 明智町に明智光秀が学問を授けたという、長楽禅寺と寺号だけが残っていることが分りました。
 明治十四年にこの寺号を移し、今の長楽寺とし、眠州が住職になりました。名匠吉村一山の刻んだ中興開山眠州和尚の座像が本堂に安置されています。
 やがて本堂並びに鐘つき楼が新築され、古来の長増寺の面影をしのぶ程立派な寺になり、各家の先祖様がまつられています。
参考文献『姫栗のむかし話』

 
 

【解説】

 極めて信仰心のあつかった姫栗村の百姓が、キリストの踏み絵に習って、あみだ様を踏んで検査に合格したと、いうことも伝えられている。長らく仏教を信仰してきた姫栗の人たちは、お寺の再建を一番のぞみ努力した。